よし,決めた!今日はもぅ何もしない(現在AM0:55)。



先日友人の結婚式があったけれど,ある程度年齢を重ねると『目出度い節目』だけではなく『悲しい節目』というのに出くわすことも増える。最近は幸い私の周囲の人に弔電を打つようなことはないけれど,数年前に連続して知人が亡くなることがあった。本当に近しい友人ではなく“自分と同年代の知り合い”というくらいの関係の人が亡くなる,というのは単純に悲しいなんて表現では言い表せない。勿論近しい友人が亡くなったことは幸いにしてないので,比較なんて出来ないけれど。

でも,ひとつだけ決めたことはある。経験に基づいた偏見に満ちたルール。


ある人に対するスタンス(相手に対する親密さや感情を含めたすべての関係性)を『亡くなったこと』によって変えるようなことはしない,ということだ。


まだ21歳くらいの頃の話,大学のクラスメイトが自殺をした。いまでもクラスメイトの名前は全員言えるくらい人数の少ない学科だったので,勿論会話を交わすことくらいはある人だった。でも,亡くなった彼女とは仲が良かったと言えるような関係ではなかった。割とクラスの中では浮いていたので,たぶん同姓の友人もクラスの中にはあまり居なかったと思う(早い時期からサークルのコミュニティに馴染んでいて,クラスの人と会話が合わなくなっただけだと思うけれど)。

そんな彼女が亡くなり,連絡網でその連絡が入る。亡くなり方が突然だったこと,その方法が衝撃的だったこと,何より身近な人間がひとり居なくなることを独りで受け止めるだけの耐性なんてその頃にはなくて(今だってあるかどうかは知らない),友人らと集まって何となく口数少なく夜を過ごしたりした。そして,翌日彼女の葬儀に何らかの形で参加する必要はあるだろうか?というクラス会議を開いたりもした。

でも,その間中,口に出せない違和感をずっと感じていた。


「なんで死ぬ前に相談してくれなかったんだろう?ひどいよ…」
「そんなことする前に少しでも話しが出来たら,死ぬようなマネさせなかったのに。」
「私達に何も話さないで勝手に自殺するっていうのは,私達をバカにしてる!」

前にも書いたとおり,クラスメイトの中に亡くなった彼女と親密な関係を持っていた人は居なかった,と思う。それは「私が居たのに…」という一人称で語られる,とても気持ち悪いエゴに感じられた。彼女が亡くなったことで,自分の人生を自ら絶ってしまう決断をした彼女の考え―それはたぶん褒められたものではないと思うけれど―や,それに至るまでに積み上げた彼女との関係性―それはたぶん親密なもとのは言えなかったけれど―が歪められた発言ばかりだった。

残された側の一時的な感情表現と考えるほうが,表面的な意味よりもその裏側にあるやるせない感情を捉えるほうが,正しいのかもしれない。そういう感覚が理解できないほど無感覚な人間ではない,と思う。それでも,一時的な感情が本当の気持ちであったとしても,そこに生前の彼女と接してきたやり方を歪めるような内容―私に相談してくれなかったんだろう・勝手に行動するなんて―を含むべきじゃないと思う。私は亡くなった彼女を悼む気持ちと同じくらい,彼女が亡くなったことで一人称だけで語られ,そして少しずつ変えられていく事実に違和感を感じてもいた。変わらない過去や記憶なんて有り得ない,そんな簡単なことを分かっていても,なおそう思う。論理的じゃない,直観だ。

関係性を保つこと,それは生きている人にも亡くなった人にも公平であるのが自然だ,とそのとき感覚的に学習した。相手のことを今までどおり,憶え続けていること。それ程難しいことではない,でも実行するのはとても難しい…うまく言えないけれど。



夜中にボケっとテレビを見ながら,スナック菓子をポリポリつまんでいると,いろんな忘れていたことを思い出す。書き留めてもどうにかなることではないけれど,文章化することは自分にとっての癒しになるのかな,などと。

  • 追記:ちょっと改稿しました(H150923)