サンドイッチ

自分のニッキを分家にしたものの,書くことが最近のテレビ批評になってしまいそうで正直怖いです。今回のクールの月9ドラマは大駄作の予感☆とかね(岡田惠和脚本は当たりハズレの差が…)。ちなみに私の後輩りゅーたん(仮名♂)は「滝沢くんがパシリをしている姿に萌えです」と言ってました。



閑話休題

大学に入ってひとり暮しを始めてはや9年を過ぎ,この自分勝手な食生活のせいで得た知識―というよりささやかな見識―はいくつもある。例えばこんなこと。



サンドイッチ作りには,作り手のドグマが反映される。



…あーアレです,ドグマって言葉使ってみたかっただけですえへへ。要は,作る人独自の作業に対するこだわり,食に対する嗜好,その逆で省略していいと思う味,などがサンドイッチ作りには如実に反映される,ということ。

例えばはさむ具ひとつ取っても,捉え方でその内容や量が大きく変わってくる。例えば市販のサンドイッチは“いかに少ない具材で最大限の満足と見た目の美しさを表現するか”という思想が反映されてて,私なんかは食べた後に「やぁ美味しかったけれど,なんか企業に踊らされてるなぁ」と思ってしまう。まぁ偏見かも知れないけれど。

私が作るとき,サンドイッチは常に“残ったレタス及び生野菜を処理するための“”作り置き料理”というのが根底にあるので,はさむ食材が何であれ必ずレタスが大量に入り,作った直後には食べずにラップされて冷蔵庫に仕舞われる。だからパンの耳がついたまんまのあの“お座成りな”感じのサンドイッチにはならなくて,作るのにも結構な時間がかかってしまう。

その一方で“ビールで流しこみながら本を読むための料理”という考え方もあるので,ちゃんとテーブルに座って食べると逆に落ちつかない料理でもある。作業中の机の上に足を放り出して,他に何かしながら食べるのが正しい御作法。そんなにテキトーに食べちゃうんだったらもっとテキトーに作れば良いのに,と自分でも思うけれど,次に作るときはやっぱり包丁を磨いで美しく耳を切ることに集中してしまう。



ある小説の中で,片腕の詩人が作るサンドイッチの描写があり,『それは彼の書く詩よりもはるかに優れている』云々という一節がある。本業とは別のところで絶賛されるのはいささか悲しいけれど,作り手の信じる教理が反映されるサンドイッチを絶賛されるというのは,その人となりを誉められることなのかも知れない。だとしたらそれも悪くないなぁ,などと考えながら,冷蔵庫で冷え切ってしまったのでトーストした作り置きのサンドイッチをもそもそ食べる夕方なのでした。