「なんでさωチャンは『はてなダイアリー』のコメント欄書きこみ不可にしてるの?」


先日のネットの中の人との飲み会で,ちょこっと指摘されたのですが。なんか酔いに任せてテキトーに返答してた気がするので文章化しとこうかな,と。

私の書く有象無象の文章群は,主に“私の日常”で起きたことと,そのときに“ひとりで”考えたことをタラタラと書き綴っているものです。コメントのついている他の人の日記を見ていると,コメントへの返答を経て,書いた人の最初の見解とその内容がズレちゃってるものが散見される。そういうのを見るにつけ“個人的な日常”を基にして“ひとりで”書いた文章の下に他者とのコミュニケーションをくっつけるのってアレだなぁ,と感じるわけで。たまに書く感じ方・考え方の文章については,色々意見が違うのは予想の範疇で,それについて他の人がどんな風に考えているのか?は,その場で回答を貰うよりも,必要なときに私がまた考えること,というより考えるべきことでは,と。


一時的に主張や感情をアタマで整理したところで身につかない。そういう一時的に精緻化された身につかない論拠にしたがって返答した至極まっとうな意見が,のちのち他人を傷つけることがある。

これは私の偏見に満ちた経験則で,つまりはそういうことです。





今でも忘れない,小学校5年生のときの写生大会の話。課題は『木』だった。私は校舎の隅の枯れたサクラの木を描いて,彩色の段階でもかなり納得のいく出来だった。でも絵の中のサクラの木には,明らかに描かれていない箇所があった。枝の節が腐って黒くなった部分が木の中心にあって,そこだけ“まだ”描いてなかった。子供心にそこは絶対画竜だ!と思っていたから。

でも見回りに来た教頭先生が,私の絵を見ながら「さω君,大事なところを描き忘れているよ?」と言いながらその節にささっと色を塗ってしまった。

その当時,結構本格的に水彩画の描き方を習っていて,「水彩画は一度画用紙に色をつけると,それより透明な色には戻らない。油彩画と違って,それが濃い色だと特に修正は難しい」というのを知っていた。教頭先生は,私がそれまで使っていた淡い色調と明らかに違うヒネリの無いまっ黒を,私の作品に無造作にのせて行った。それも,すごく満足そうに。



結局その作品は金賞を頂き,周囲の人も褒めてくれたけれど,描いているときの納得とか充実感はもう無くなっていた。他のときの彼の発言や態度は全く知らなかったけれど,私はその教頭先生のような行動はしないようにしよう,と強くつよく思った。

  • 追記:blogとか(綴りあってる?)が狙っている,時事性の高い話題とか強行な意見・主張などの相互交流は別に望んでいないし,そもそも話題としてもあまり出ないと思います。私が書いているのは個人的なカタルシスのために書いているから,コメントはいいですよー(照)という感じです。
  • そんなヤツが何故『はてなダイアリー』を利用しているのか?と言われると身もフタも無いんだけれどね。デザイン綺麗だったんだもの。
  • あと,私の文章を見て考えたことを『自分のサイト』で書いてくれたりするのは嬉しかったり恥ずかしかったり,です。実は掲示板もスキだったりします,つけ方わかんないからつけないけれど。