どうやら世の中には『モテパシリ』というジャンルの人種がいるらしい。



黙っていればそれなりに女性に人気があるのに,何故か女の子に使われることを厭わない,むしろ使われることにある種の快感を感じてしまう人の総称,モテパシリ君。あぁ分かっていると思いますが,私の造語ねコレ。人前で「こんなターム知ってる,キミ?」的な使い方するとすごく馬鹿にされると思うので気をつけましょう。まぁともかくきっと男性の方なら周囲にこんな友人や同僚の一人くらいはいるのでは(“男性の方”と書いたのは,女性はきっと気づかないと思ったから)。

かくいう私の傍にも思い当たるフシがひとり,三社さん(仮名♂)である。ルックスは多分誰が見てもイイ男,趣味・性格に特に問題があるわけでもないので,黙ってても女性は寄ってくると思うのだけれど,本人が話題にする“寄ってくる女性”というのが曲者揃い,という感じ。「やーーまた○○ちゃんに××やっといてくださいよ,とか言われちゃってーー」という発言をしているときが一番楽しそうだったりする,私の偏見も入っていると思うけれど。ある意味ではマゾなのかもしれない。



不思議なもので彼らは,見た目のカッコ良さ以外にも単なるパシリとは明らかに一線を画している。何が違うか?というと,まず①自分が“パシラされている”ことを自覚している,そして②その“パシラされている感覚”を楽しんでいて,単純に自分のカッコ良さ目当ての女性にはなんにも感じない,という2点で完全に異なる(と観察して気づきました)。

人間は追われたり与えられたりする受動的な人生を歩むと次第にそれに馴化してしまい,自分から能動的に何かを相手に与えることにしか喜びを感じられなくなる。結果的に誰かから言い寄られたり,ものや言葉を貰ったりしても特に嬉しくなくなって,むしろ卑下されたり「〜やって!」と命令されるような理不尽なハードルを自分の力で越えることに快感を得るのだなぁ,と勝手に推測しています。自分で書いててアレですが,こんな取ってつけたようなライフスパンにおける変遷と因果関係は全部ウソのような気がするけれど。だって与えられることに慣れれば単にスポイルされるだけだから,普通に考えれば『我侭ッ子』になるだけでしょう。



というワケで,この手の人種がどのように育まれるのかは定かではないけれど,そんな人―パシラされるのを嬉しそうに甘受しているの―を見かけるたびに,ただただ不思議に思ってしまう。

私は全然モテではないし何かをよく頼まれるタイプでもないけれど,そういう“他人を利用しようとする意図”みたいなのが少しでも見える頼みごとをされると,その頼まれた内容がどんなに自分の得意なことであれ,とても癇に障る。勿論「頼んじゃった方が経済的だから」というプラグマティックな見方はあると思うけれど,「こう頼めばあの人ならやってくれるよ♪」という打算的な雰囲気が,ごく控え目に言って大嫌いなんだと思う。でもそんな人間関係への直観に従って頼まれたことに一々苦言を呈していたら狭量な人間に見られることを経験として知っているので,そういう頼みごとには必要以上にニコニコしながら対応している,と思う。それで頼んできた人間の絶対的評価みたいなのを低くする“だけ”にしている。

逆に自分が何か頼みごとをするときは,まぁ頼まれて貰えなくても仕方ないなぁ,と半ば諦めつつお願いするか,本当に困っているとき切実に誠心誠意をもって(という表現もヘンだな)お願いするか,のどちらかにしている,つとめて。そしてお願いを訊いてもらったときは本当に感謝するようにしている,つとめて。

あぁ文章化するとやっぱり私は偏屈な人間だなぁ,モテパシリの懐の広さにはとうてい敵わない。





勿論こんなことを考えついたのは月曜9時に好評放映中,我侭な演技がハマらない長谷川京子の今後が懸念される『僕だけのマドンナ』をつけながら珈琲入れてたせいなのだけれど。ストーリーほとんど憶えていません,えぇ。