仲の良い人がいるとして,その人もまた自分とは仲が良いと思っていると仮定しましょう。でもその“仲が良い”ことのバランスというのはどんなところから生じるのか?というのを考える。



例えばその仲が良い二人の関係というのが,ひとりが自分のことを多く語り,もうひとりがその語られることを静かに聞いている,といった場合。


単純に自分語りの人は自己顕示欲が強かったり,仲が良いと考えている相手に自分のことを知ってもらいたいから色々な考え方を共有したり議論したりしたかったり,さまざまな理由は考えられるけれど,ともかく自己開示(他者に対して,言語を介して伝達される自分自身に関する情報,およびその伝達行為,の意味:有斐閣『心理学辞典』より抜粋)をしているのだから,これは“好意としての友達性”は保たれている。

これに対して,静かに聞いている方は,というと。本当に相手の語る内容を親身になって聞いているのかもしれないし,実は特に相手の語る自分語りに興味はなくなりつつあって,本当は自分のことをもっと知って欲しいのに…という気持ちを押し止めているのかも知れないし,はたまた自分のことを語るのは辛い―目新しい出来事,語るだけの考えや思いがない―ので,自分が語る必要のないこの相手といるのは心地良い,と考えているのかもしれない。


こういう関係性に対する疑問―語る側は「なんで彼(彼女)は自分のことを語らないのだろう」という疑問,聞く側は「なんで彼(彼女)は自分のことを聞こうとしないのだろう」という疑問―を持つこともなく「お互いは仲が良いのだ」と決めているのだとすれば,それは本当の意味での友好関係とは言えないんじゃないのかな,と。





相手のことを知りたいという友好関係における正常な欲求がある,とします。例えば顔見知りの人が今どんなことを考えて,どんなことをしているのか,といったことを知りたくなるのは,まぁ普通のことだと思う。

ただそれの派生として,顔見知りの人がいまどんなことを考え・しているのかを想像する,という行為がある。


これは相手に対して友好関係が“なくても”全然成立する。好きな人が今どんなことをしているのだろう?と沸々と想像を(妄想も?)めぐらせる,というのは相手に対する好意のなせる業だけれど。これに対して,例えばある知り合いが何をしているのか・いまどんな状況なのか,といったことを“噂として”想像する,というもの。これはその噂の対象になる人に全然興味なんてなくても―というよりどちらかといえば身近にいるけれどどうでも良い人の近況について,本人の居ないところであーだこーだ仲の良い人と言い合う方がむしろ楽しく―成立する(そもそもホントに相手のことを知りたいのであれば“噂”なんていう事態は生じないし,直接相手に聞くだろうしね)。


相手のことを知りたがっている『行為』の裏側にある,その『動機』をちゃんと把握しないと正しい関係性は生じないのだなぁ,ということ。





ひきこもりな人が「他人の眼が気になる」云々と語ることがあるけれど,他人の眼自体はすごく“自分本意”で,自分の方を向いている『行為』が事実だとしてもその『動機』というのは様々で,たとえどんな風に振舞ったところでその視線を向ける相手の動機というのは変化してくれない。変化しないものに怯えないで,自分の出来る範囲のベストの行為をしてればいい,という風に考えられると楽になるかもしれないのになぁ,と。





ざるうどんをぞぬぞぬ…とすすりながらテレビを眺めつつ,ぽけぇーーっとこんなことを考えた。